エッセイ   すね毛パパってどんな人
このホームページは当初「すね毛パパの部屋」というタイトルを考えてました。

でも、広く門戸を開いて、たくさんの”おじさん好き”の人達にホームページを見てもらうためには、あまりに具体的すぎる”すね毛”を取っ払ったほうがいいと判断し、その後もいろいろな紆余曲折を経て、今のタイトルに決めました。

また、中・塾年男性を意味する言葉も、「親父」「おとうさん」「おじさん」「おっさん」「おっちゃん」といろいろあるけど、「パパ」にしたのは理由があります。

それは、ニュアンス的に”ちょっとオシャレなおとうさん(一般人レベル)”で、”柔軟な考え方のできるオトナ”という柔らかいイメージが感じられるからです。
そして、それこそが僕の理想の人だからです。

実際にもし、僕に年上の彼氏がいても「パパ」なんて呼ぶことはないでしょう。
たぶん「○○さん」と、その人の苗字名前か愛称を”さん”付けで呼びます。
でも、このホームページ内においては魅力的な中・熟年男性を「パパ」と呼ぶことにしましょうね。

すでに同コーナーのエッセイ「フェチ持ちって何?」でも語ったとおり、子供の頃に近所のおじさんの家にテレビを見せてもらいに行ってたことで“すね毛パパ願望”が芽生えたわけです。


でも、ひょっとすると、それ以前にもゲイとしての種は自分の中に存在してたのかもしれないな、と、大人になってから考えるようになりました。

思い当たるのは、我が家独特のちょっと普通でない親子関係、兄弟関係です。
3つ年上の兄とは仲がよくなかったし、兄弟ゲンカで泣かされると、父は泣かせた兄を叱らず、泣いている弟のほうを叱るような理不尽な親だったのです(普通、逆でしょ)。


人間嫌いで多少、世をすねた感じのある父は、常に世間の人とは逆の考え方をするのを得意がってた人で、独特の理論を展開する人でした。
だから一方的に兄にいじめられて泣かされた上に、さらに「お前は自分を合理化しようとする卑怯なやつだ」とか、意味のわからない言葉で父に追い討ちをかけられるのだから子供にとってはたまったものじゃないです。まさに泣きっ面に蜂、今で言う幼児虐待です。

母も小さな事にすぐ感情を高ぶらせる人だったので、マザコンにはならずにすんだかわりに、女性(母性)に安らぎを求める心は育ちませんでした。

知らず知らずのうちに、友達のおとうさんや近所のおじさん、つまり父親以外の「おとなの男の人」に安らぎを感じてのだと思うのです。

あるいは、理不尽な父や兄をやっつけてくれるスーパーマンのような、より強い存在を本能的に求めてたのかもしれません。

テレビが一家に一台の時代に、親がチャンネル権を握ってる家庭の子としては、近所の子供好きなおじさんがいる部屋が天国だったのでしょう。
自分の父親にはないやさしさ、安心感を感じていたのではないかと思います。

そのビジュアルイメージとして、子供好きでやさしかった”村田さん”のステテコ姿が幼い脳に刷り込まれてしまったのだと思うのです。

もちろん、当時はそれが自分の運命を左右するほどのトラウマになるとは夢にも思ってませんでした。

“おっちゃん”こと村田さんはは僕が中学にあがるころには、どこか遠くの町へと引っ越してしまったのだけど、“脛毛が立派”という事以外にも、人柄や外見、雰囲気など、ぼくの“理想の恋人”の基本イメージとなっていることはいうまでもありません。

僕が女性でなく、男性に恋をする同性愛者となったのは、先天的なものか後天的なものかはわからないけど、少なくとも「美青年や二枚目好きなホモ」ではなく、おじさん好きなフケ専ホモとなったのは幼児体験による後天的要素が強いのは間違いないです。

もっとも、子供のころは「フケ専」なんて言葉も知るよしもなかったし、恋心の対象は子供から見た「おとなの男の人」だったので、今よりグンと恋愛対象範囲は広かったのです。

でも意識してなかったにせよ、根底には「父親」というイメージがあったので「おにいさん」よりは「おじさん」的イメージの人のほうが好きだったようです。

「脛毛」は、「髭」や「胸毛」などとともに”大人”と“父性”の両方を象徴するアイテムなので、さわやかな美青年より、渋みがあって、風格ただよう中年男性に似合います。

それは、たとえば女性が好む「少年」や「美形」といった価値観とは対極に位置する価値観であって、いわば、むさくるしい”おっさん”の魅力と言うとイメージ的にはぴったりでわかりやすいかと思います。

「おっさん」は「少年」の反対語、少年の爽やかさとは逆の、もっさりした男くささを感じる言葉・・・でもなんかちょっと知的な響きに欠けます。
「おじさん」はやさしい響きだけど他人行儀、「おっちゃん」は可愛いけど、やっぱりちょっと他人っぽいかな?「おとうさん」は丁寧語のニュアンスがあります。

それでは「親父(おやじ)」はどうかというと、男らしいイメージはあるけど、ちょっと頑固そうなので、やっぱり言葉の響きとしては温ったかそうで柔らかいイメージの「パパ」がいいですね。
僕の描くイラストは元になってるイメージモデルがそうなので、コワモテの”親父”っぽくなりがちだけど、本来は甘えたくなってしまうような”やさしいパパ”なんです、そう思ってイラストコーナー(パパ画廊)を見てください。


ところで、女性の多くが毛深い男性を敬遠するけど、それは当たり前の話です。
だって、女性(の多く)は、胸毛や脛毛、腕毛などが似合わないタイプが好きなんだもの、我々、“おっさんの魅力”を追い求めるホモとは根本的に違うんです(例外もあるようだけど)。

ゲイ社会では、よく「○○専」(フケ専、ジャニ専、デブ専など)という言い方をしますが、そういう分類で言うと僕は「フケ毛深デブ専」です。

ただし、デブ専資質は薄く、脂肪太りよりも筋肉太りが基本、たまに標準体型の人を好きになったりするし、脛毛か胸毛のない人でも顔や雰囲気でプラトニックな恋心を感じることもたまにあるので「毛深専」とも言い切れないです。

気本的に年上好きなので、自分の年齢とともに年々対象年齢が上がります。
今ではすっかり熟年世代と呼ばれるくらいがストライクゾーンに入ってきてるので「フケ専」には違ないけど、この「老け」イコール「老人」という油っけのない乾燥した(?)イメージは好きになれないです。
血色のツヤツヤした油ギッシュな中・塾年を「老け」とは呼ぶのはどうもピンとこない。
そこで勝手に、僕の好みを端的に表す言葉として「すね毛パパ専」って呼び方を考えました。
ここで、あらかじめハッキリさせておきたいのは、主語は「パパ専」であって、「すね毛」は装飾語だということです。
だから「すね毛専」というのは僕の頭の中では単独では成立しない言葉なのです。


僕はどんなに脛毛や胸毛が立派でも、顔が美男系やイケメン系だったりすると萎えることこのうえないです。万一、そんな子を見てしまったら、記憶から消すようにしてます。

(すみません、世の中には「毛深い美男」「毛深い若者」が好き、って人も当然いらっしゃるでしょうから、もし、このエッセイを読んで気分を悪くされたらごめんなさい。)

現実には「毛深い体質」は人を選ばないから、可愛い少年のような若者が短パンになると意外とスネ毛が黒々してたり、逆に、眉毛もヒゲも濃いいかつい親父さんが足組みしたら見事にツルツルな脛がズボンの裾から見えたり、本人のイメージを裏切ってる場合が多いです。

中村うさぎさんのエッセイで「沖縄ですごいイケメンホストにときめいたまではいいんだけど、ふと彼の手の甲を見て、その毛深さに百年の恋も冷めてしまった」というような内容の話を読んだ(倉田真由美さんの漫画ので見たのかも)けど、立場こそちがえ、うさぎさんの気持ちはよくわかります。

本人が望むイメージと、現実とのギャップが極端だと、恋する気持ちが萎えちゃうのは、“毛深おじさん好きホモ”も、“つるつるイケメン好き女性”も一緒なのですね。

イケメン(美男子)に手の甲の毛などの体毛が似合わないのは、うさぎさんの体験談を持ち出すまでもなく、感覚として普通に理解できると思うけど、「おじさん」=「中年」なら、必ずしも毛深いのが似合うかというとそうでもなく、それは普通の人にはわかりにくいマニアックな感覚かもしれません。

たとえば、健康飲料のCMで清流に足をつかってる児玉清さんのような、さわやか系(?)のおじさん俳優は脛毛のないすべすべ肌が似合います。

二枚目イメージをひきずってる俳優さんは中年、初老になっても脛毛は似合わないですね。石田純一さんなんて50歳超えてるけど、絶対、すね毛ないほうが似合うもんね。

逆に小野武彦さんは脛毛があるほうが似合うタイプ(と、個人的には思ってます)なのに、トヨタサービスのCM(犬を洗いながら娘と会話するやつ)で、毛がないスベスベな臑だったのにはガッカリでした。(でも、形のいい柔らかそうな足の裏はセクシーでした)。


残念ながら「すね毛パパ」は芸能界には少ないです。

だから僕には“理想の恋人”という意味での“スター”は俳優、タレントなど人気商売の人の中にはいません。

僕にとっての「理想の人」は、普通に働いてる一般人の中にしか存在しないので、スターの追っかけをしたり、雑誌のグラビアやポートレートや切り抜き写真、ビデオ、DVDなどのグッズを集めたりする楽しみがないのが残念です。
恋の対象ではなく、“アーティストとして好きなスター”なら、男女を問わずたくさんいるけど・・・・。


だから恋愛の代理行為として“スターに憧れる人生”を送ってる人がうらやましく思うこともあります。
おすぎさんにとってのブラッド・ピットや、古くは小森のおばちゃまにとってのジェームス・ディーンのような・・・。


”擬似恋愛対象”としてのスターを持ってるいる人は、現実には恋人がいなくても、寂しさをかなり緩和できるにちがいないと思えます。

理想の人が“素人”だと、グッズや映像による擬似恋愛気分を味わえないのがつらいところです。素人さんに、どんなに憧れても、単なる片想にすぎないのが悲しいです。

ところで、プロレスラーやお相撲さんに毛深い人が少ないのは、なぜでしょう?
ボクサーの白井義男さん(故人)やファイティング原田さんは脛毛が濃かったけど、中量級まの小柄な人だし、胸毛も脛毛も濃かったキックボクシングの玉城良光さんもライト級でした(引退して太ってからすごい理想の男に変貌)、レスラーでも奄美大島出身のスネーク奄美さん(故人)は胸毛・脛毛ともに凄く濃かったけどライトヘビー級だったし、どうも日本人の場合、身長175センチあたりから上になると毛深い人の比率がガクンと低くなるみたいです。

今、思い出したんですが、戦後最大の大スターのひとり、長島茂雄さんは、わが国の“毛深い”大スターですね。
忘れちゃいけませんね、そう言えば子供ころは長島さん好きだったんですが・・・。
「ミユキ野球教室」(服地メーカー提供の野球トーク番組)で初めて長島さんの声を聞いた時にかなり恋心は醒めました。、
でも、この美少年文化のこの国に、長島さんのような毛深さがプラスイメージのスターが存在すること自体、有難いことですね。


でも長島さんよりもずっとに素敵な「すね毛パパ」は、一般人の働くおとうさんの中にたくさんいます

でも、それは圧倒的にノンケのおとうさんで、残念なことにゲイの世界では、芸能界同様、”すね毛パパ欠乏症”です。

それでもゲイ人口の集中した東京や、地方でも南九州、沖縄でくまなく探せば”すね毛パパ”を探しあてることもできるにちがいありまん。

ゲイ(ホモ)の絶対数が圧倒的に少ない地方都市では都会の人が想像するよりはるかに人材が乏しいので、”すね毛パパ”そのものが物理的に存在しないのです。

”ホモすね毛パパ”の存在しない地方に住んでると、どうしても「ノンケすね毛パパ」に片思いしてしまうのがきびしい現実です。


近距離恋愛は無理でも、日本全国のどこかにいる”ノンケでない”「ホモすね毛パパ」「バイすね毛パパ」「わけ知りノンケすね毛パパ」の3タイプのいづれかと、なんらかの繋がりをもてたら、僕の人生は大成功だと思えるのです。

高望みはしません、近距離恋愛は確率的に実現不可能、相思相愛も実現する可能性が低く、友達以上恋人未満、何番目かの候補になれたら、それをよしとしなきゃならないくらいの恋愛欠乏症だけど、「すね毛パパ」という理想だけは絶対崩せないのです。

 「すね毛パパ」は「理想の男」と同意語として、このホームページの基本テーマとします。

2006.9.10小改訂

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