エッセイ ”フェチ”ほど狂おしい恋をする 注:今回は話をわかりやすくするためセックス願望よりフェティシズム が優先してる「フェチ持ち」のことを「フェチ派」もしくは単に「フェチ」と表記します |
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あれは確か2002年頃前の事だけど、ゲイ雑誌のエッセイに書かれていた言葉にひどくショックを受けたことがあります。 |
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で、ここからが本題です。 体の特定部位やモノにこだわるフェチ派の人たちは、その作家さんが言うように、本当に恋に悩まないのでしょうか? 答えは言うまでもないですね、 ”人を恋する心”に「フェチ」も、フェチでない「普通のホモ」も関係ありませ〜ん!! 恋愛感情に淡白な人は、ゲイ(同性愛者)、ノンケ(一般男女)に関わらず、たしかに存在しますが、それはフェチ派かセックス派かは全然関係ないです。 むしろ逆に、作家さんの言う「我々」=多数派(セックス派)のほうが、恋に悩まないような気がします。 なぜかって言うと、性欲がセックスと直結してるほうが、ハッテン場などで性欲の処理が比較的簡単にできるし、恋愛感情と性欲とを分離した考え方が出来るからです。 だからこそ「セックスフレンド」という概念も成り立つのです。 「体の部位へのフェチ」というより、「体の特定条件のフェチ」にとっては、性的欲求を発散する場所はありません。 フェチに対応した人を探すこよ自体が大変だし、セックスフレンドという概念そのものが成り立ちません。。 フェチ派には、願いの叶いやすいフェチと、願いの叶いにくいフェチと、そのフェチ対象よって、すご〜く大きな差があるので、僕がすべてのフェチ派の気持ちを代弁することはできません。 あくまで、フェチ派の中のひとり(ひとつのモデルケース)として意見をのべているのです。 ただ、願いが叶いにくいフェチ=「特定の肉体条件」を求めるフェチは慢性的な欲求不満を抱えて悶々としているのは事実です。 満たされない性的欲求と、せつない恋心とが重なってしまうと、ものすご〜く苦おしく切ない想いとなって胸をしめつけるものなのです。 もちろん、すべてのフェチ派の人が僕と同じパターンなわけありません。 フェチ派の人の中にも、作家さんが言うように、”情”的に淡白で、「恋に悩まない」人もいるでしょう。 それはセックス派も、一般のノンケ男性、女性も一緒だと思うのです。 よく、「女は恋に生きる生き物」と言われますが、昔見たテレビ番組で、「女性は意外とクールで、実際は男性のほうが恋にウジウジ悩む」という実験結果が出た、という記憶があります。 どんな方法で実験したのか憶えてないのだけど、結果は意外と思う反面、「なるほど」とも思えます。 あくまで相対的なもので、個人レベルでは、女性でも男性以上に恋に悩む人も当然いると思います。 相対的には女より恋に悩む男、それよりもっと恋に悩むのが「ホモ」だと思うのです。 「女よりも恋に悩むホモ」の中でも。僕のような、年上を慕うファザコンタイプのホモが一番、恋に悩む人種じゃないかと思うんです(反対意見も当然あると思うけど、あえて言わせてください!) 「年上専」が年上の男を好きになるのは、女性が男性に恋する感覚に近いと思います。 だから、「恋に生きる女性」のように激しく燃えるのです。 加えて、女性にはない(?)性的な”悶々”があるのだから、男の生理を持つホモの恋は本当に悩ましく、狂おしいです。 フェチ派の中でも「特定の肉体ビジュアルを求めるフェチ」である僕は具体的には”脛毛”フェチです。 (幼児体験でそうなってしまった経緯は別項のエッセイ「フェチ持ちって何?」「すね毛パパってどんな人?」を読んでください) でも、人並み外れた立派な脛毛があれば誰だっていいわけではありません。 オッサンぽい渋い人ならいいけど、美男系や若い人の脛毛って逆に、ものすご〜く気持ち悪いのです(美男系で若い男好きの方ゴメンなさい) つまり、僕の恋愛対象×性的嗜好は おじさん専(基本)+{足フェチ×毛フェチ}=”すね毛おじさん専” という数式で成り立っているのです。 言うまでもなく、フェティシズム以前に、好きなタイプ(恋愛対象の守備範囲)があるのです。 その守備範囲内の”タイプな人”が、必ずしも性的嗜好にマッチした人であるとは限らないのが現実で、自分のフェチに対応してない人は性的対象、つまりマスターベーションのオカズになりにくく、プラトニックな想いだけの恋をすることもたまにはあるのです。 僕の場合は、普段着であれ、仕事着であれ、普通に服を着てる姿にビビっとくるものがあるかどうかが重要で、体型ももちろんだけど、やっぱり渋く男らしく風格のあるの顔立ちの人に惹かれます。 たとえば、僕が新しい職場に転任したとしましょう。 そこには、ものすごく男らしく渋い顔立ちの上司がいて、ポ〜っとなってしまったとします。 その職場に来てからというものの、その上司の顔を見るたび、声を聞くたび、ドキドキして気持ちは恋愛モード(片想いモード)になってしまっっている状態です。 ところが、ある日、その憧れの上司がロッカーで着替えるところを見てしまった、あるいは靴下を直す時に毛のないツルツルの脛が見えてしまった・・・・・・・・ その瞬間から、その上司への想いは急激にテンションがさがってしまうのです。 ただ、その人が、本当に人間的魅力のある人だと、テンションさがってもなお、プラトニックな想いは残ります。 フェチに対応してないということで性的興味はなくなるものの、「好き」という感情は残るのです。 僕は過去、すね毛のない(ごく薄い)おじさんに対しても、何度か夢中になった経験はあります。ただ、やはりオナニーのオカズにはなりにくかったです(例外的に胸毛のモノ凄い人は脛毛に変わる”オカズ”になります、欧米人のおじさんなど特に)。 過去の片想い体験でも、対象となる人によって、肉体的な魅力が占める割合の多い人と、人間的な魅力が占める割合の多い人がありました(両方の比率が同じの”完璧に理想の人”もいました)。 残念なことに片想い対象は圧倒的にノンケの人が多かったのです。 それは精神的な面で僕が求めるものを持ってるのは、ノンケ的資質の中にあるからなのだと認識するようになりました。 ノンケ好き=これはホモとしては絶対不利な苦労のタネです。 誰も好き好んでノンケに惚れてるわけじゃないのに、これは悲しい性(さが)です。 でも、やっぱりノンケ気風の、男気ある頼もしさに、どうしても惹かれてしまうのは、どうしてでしょう? 理屈でノンケに惚れるのは損だと解っていても、自分ではどうしようもできないのです。 身に付ける「モノ」のフェチの人の場合と、僕のように、特定の「肉体ビジュアル」フェチの場合とでは、状況がかなり違ってます。 僕にも「モノ」に対するフェティシズムはあります。 靴下とかステテコとかサンダルとか・・・でも、それは2次的なフェティシズムであって、メインである”足(脚)””すね毛”を盛り上げる脇役、調味料のようなものです。 決して、それ自体に性的興奮を感じるわけではありません。 誰が履いたかわからない靴下に興奮するわけもないし、男らしい風格あるおじさんの靴下だとわかったら興奮するのです。 人によっては、デパートの靴下売り場のディスプレイで”抜ける”という人もいるけど、僕は無理です(”抜ける”と言った人にはゴメンなさい)。 石膏で型をとったようなリアルなディスプレイだったら、ありえなくもないかもしれませんが、あくまでそのディスプレイがガッチリしたおじさんぽい形だったらの話です。 あの作家さんが見落としてる大きな問題点は、フェチと言えども好きなタイプがあると言う事です。 そこに気づいていれば、あんなカンちがい発言もなかっただろうに、たぶん御本人が一番後悔してると思います。 おじさん好きの人、と言うより年上の人を好きになってしまう人は”父性”を求めているわけで、潜在意識として、自分をかばってくれるような存在を求めているのです。 自分自身が大きな不安やコンプレックスを抱えてたり、何か精神的なトラウマを持つ人は、それをカバーして精神を安定させてくれる存在を、本能的に強く求めています。 だから、おじさん好きの人の、年上の人を慕う気持ちは、とても強くてせつないものです。 それは、このページを開いて読んでくださっている人ならわかるでしょう? たとえ幻であろうとも、自分を見守ってくれる存在が絶対に必要、それがなければ死んでしまいそうほど淋しい、その気持ち、それが年上の人に恋する者の心なのです。 いくらフェチ持ちであっても、おじさん好きである以上、恋する心がないわけないじゃないですか! |
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それに加えて、おじさん好きのフェチ持ちが、さらに普通のゲイより激しい恋をするのは、対象となる人が、あまりに”希少”で出会いが少なすぎるからです。、 必然的に、ひとつのチャンスに賭ける比重が高すぎるので、そのチャンスを逃したくない必死の思いに胸が押しつぶされるほどの重圧がかかってしまうことです。 チャンスが少ないから燃えあがる炎の温度も高いし、失った時の喪失感の大きさも計り知れないのです。 「人並みはずれた立派な脛毛」という肉体ビジュアルを持つおじさんだけに性的達成感を感じる”すね毛フェチ”が、私、タロスケのセクシャリティーであることは前述したとおりです。 で、しつこいですが、すね毛が濃ければ誰でもいいわけではない。 それと同じで靴下フェチや制服フェチ、ブリーフフェチや褌フェチの人も、それを身に付けてさえいれば誰でもいいわけではないはずです。 フェチである以前にタイプというものがあるわけで、タイプの人が身に付けることで初めて性的興奮が発生するはずです。 フェチがあってもなくても、好きなタイプがある以上、人は必ず”恋”をするはずです。 突き詰めて考えてゆけば、恋に悩むかどうかは、フェチかどうかということも、さほど関係ないのかもしれません。 性的な快楽を求める比率が高いか、精神的な幸福感を求める度合いが高いかということも、個人差がすごく大きいのでしょう。 でも、求めるものが手に入りにくい状況にある人ほど、”狂おしく”悩むものだということ、知ってほしいです。 |
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(付記) あのエッセイが掲載された当時、その雑誌のWebサイトに、エッセイを書いた作家さん宛で抗議メールを送りました。 かなり感情的な文面で作家さんを責めたてた内容のものでした。 でも、その抗議メールは、雑誌編集者さんの配慮で、作家さんにまでは届かなかった事を後に知るのだけど、今となってはそれで良かったと思えます。 時が経って冷静になって考えてみると、作家さんの失言を責めてもしょうがないことに気づいたからです。 ゲイ雑誌に寄稿してる作家さんのほとんどは、それ自体を職業にしているわけではなく、本職を別に持ってる一般人で、いそがしい仕事の合間に毎月、締め切りに追われて原稿を書いてる”半アマチュア”です。 作家さんの中でも、エッセイなど自分の人生観や世界観を書いてる人は数えるほどしかいません。 他の作家さんと意見交換なども、そんなにはできないのでしょうから、きわめて個人的な思いこみがあって当然なのです。 ゲイ雑誌業界、というよりもゲイ社会そのものが未開拓でロールモデル(前例)のない世界なのに、作家さんは無理にでも、そこから何かをひねり出さなくてはならないのは、想像もつかないほどの苦労のようです。 ひとつのテーマを決めても、資料としてのロールモデルもないし、プロの雑誌編集者のように取材費用や時間がもらえるわけでもありません 「フェチ」に対して書くにしても、おそらく作家さん自身も深く掘り下げて考える時間も材料もないまま、とにかく締め切りまでに、ネタとして仕上げてしまわないといけない。 もし、作家さんがエッセイストもしくは雑誌編集者や漫画家を本職とする人であったなら、当事者である”フェチ持ち”の人からいろんな意見を聞く機会も作れたと思うのです。 きっと、アマチュアである作家さんは自分のゲイ生活範囲内のごくわずかな情報だけで”書き物”を仕上げてしまわなくちゃならないのでしょう。 そのことは僕も最近になって、少しわかってきました。 以前は誤解を含んだエッセイが、ストレスの原因となって、作家さんをずいぶん恨んだものです。 ネット社会になって少しはマシになったものの、東京を中心とするゲイ社会の情報伝達はまだまだ未発達で、ゲイの人は全体が見渡しにくく、自分の置かれている立場でしか物事を判断できないのは仕方のないことなのかもしれません。 しかし、これからのネット時代は立場のちがう者どおしが互いに意見を出し合って、理解を深めていくことが大切だと思います。 ’07.5.21記 随想TOPに戻る |