あれは中学の頃だったでしょうか、映画雑誌を読んでると「フェティシズム」(および短縮形の「フェチ」)という聞きなれない言葉に出会いました。
その記事は、ルキノ・ビスコンティ監督の、女性の脚や皮のブーツへの執拗なこだわりを語ったものでしたが、なんとなく理解できました。
それは、対象こそ違えど、自分も思い当たるふしがあったからです。
それから永い年月が過ぎ、いつのころからか「フェチ持ち」って言葉を耳にするようになりました。
今ではノンケ男女の会話の中でもでも普通に使われている「フェチ持ち」って言葉に関しては、「フェチ」から発展した“造語”にちがいないのでしょうが、なんだか自分のためにあるような言葉というか、僕自身の性癖を言い当ててる言葉です。
しかし、いくら「フェチ持ち」と言っても、男女の場合は結局はセックスが最終目的のような気がします(例外はあるかもしれませんが・・・)。
女性の性衝動についてはわからない事が多いけど、少なくとも一般ノンケ男子の場合、年頃になれば異性である女性の裸を見ると興奮し、女性とセックスしたいという欲望に発展するのは、あまりにも当たり前な自然の摂理です。
では、ホモ(男性同性愛者)の場合はどうでしょうか?
同性である男性の裸を見ると興奮し、男性とセックスしたい、と考えるのが普通のはずだけど、絶対そう言いきれるでしょうか?
少なくとも、僕はちがいます。男と男の性交渉に昔から違和感を感じてました。
たしかに(特定の)男の裸を見ると興奮するのは事実だけど、その後の反応には個人差があるように思います。
一般男性が自分のペニスを、好きな女性の○○○に挿入したいと欲情するのは、きわめてスムーズな流れだけど、ホモ男性が好きな男のアナルに自分のペニスを挿入したいとは、何も予備知識がない場合にも思うものなんでしょうか?
そんな回路が男性同性愛者の脳には最初から備わっているとは思えません。
後から知識として“アナルに挿入する”ということを、人から聞かされるか、本や何かから学習するのではないでしょうか?
好きなタイプの男の裸を見て興奮した次の時点で、裸で抱きたい、抱かれたい、そしてなんらかの方法で、勃起したおチンチンから溜まったものを発射してしまいたい、とは本能で思うでしょうが、まさかお尻の穴にペニスを入れることや、自分のお尻の穴に相手のペニスを挿入してもらうことを、何の予備知識もなしに思いつくとは僕にはどうしても考えられないのです。
このことは僕の個人的な思いであって、間違ってるかもしれません。
他の多くのホモの人達とは脳ミソの中の回路が違うのかもしれません。
案外、最初から”男の尻の穴にチンチンを入れるセックス”の”特殊性”に性的興味を持ってて、そのアナルセックス願望を入り口としてホモの世界に足を踏み入れる人も多いのかも知れません。
僕の場合は、男性同士の“その”セックスの方法を知ったのは中学の時で、交通事故の「オカマを掘る」というこ言葉の意味として初めて聞いて、すごいショックを受けました。
そのショッキングな言葉の意味は、僕の場合、性的興奮には繋がらなかったのです。
だってウンコが出るところに自分のおちんちんを入れるなんて、不潔だと思うのが自然な感情でしょ?
その後、高校生になって、ゲイ雑誌を読むようになると「アナルセックスって、ひょっとして気持ちいいのかも」と、淡い憧れさえも芽生えてくるのですが・・・・。
でも、最初のころは、男性同性愛者は肛門でセックスする、という事実は認めたなくい、信じたくない現実でした。
僕はそれ以前、つまり、アナルセックスの存在を知るはるか昔の小学校低学年の頃、すでに特定のタイプの男の人に惹かれる心が芽生えてました。
そして、その時点で、好きな人の裸を見たり、体の一部が触れたりしたら、おチンチンが勃ってしまう生理現象も始まってたのです。
本格的?に自慰(オナニー)を覚えたのは小学校高学年(5年生)になってからです。
つまり、ここが重要なんですが、オナニーを覚えた時点ではまだ、一般的に男性同性愛者同士はお尻の穴に、おちんちんを挿入するなんて、夢にも思わなかった事です。
当初は、男の人どうしでもセックスするってことに、映像的、具体的イメージがなかったのです。
じゃあ、セックスのイメージがないのに、何をイメージしてオナニーのおかずにしてたか?というのが、これから話す「フェチ」の正体なんです。
オナニーを覚えはじめた小学5年生のころ、僕がイメージしてた“おかず”は隣のクラスの担任の男の先生の”毛深い足だったのです。
その先生、仲本先生(仮名)は当時、デンターライオンのCMをやってた福田豊士さんにも似た男らしいルックスで生徒(児童)からも人気のある先生でした。
台風の翌日、校庭の泥水を運ぶ先生の、膝下まで捲り上げたジャージから、モリモリした向う脛やふくらはぎの筋肉の上に黒々とした毛の生えた足にびっくりして、勉強なんかまるで手がつかないくらいのショックを受けてしまったのでした。
ズボンの裾まくりが好きな先生の、その見事な「毛ずね」は、その後もキャンプや修学旅行でたびたび見ることになるけど、そのたびに魔法にかかったように、ピンピンにオチンチンが勃起してしまうのでした。
そして何より、夏のプール上がりの濡れたシマウマ模様の足を見た時などは、体じゅうの力が抜けて、その場に座り込んでしまいたいような気持ちになってしまうのでした。
先生の毛深い足になぜ、そんなに強烈に反応してしまったかというと、実はそれ以前の、もっと幼い頃のトラウマ体験が“デジャブ”を呼び起こしたからなのです。
そのことはだいぶ大人になって、自分の中の歴史をさかのぼって気づいたことです。
その、幼い頃の体験とは、当時(昭和40年代初頭)の住宅状況が関係してます。
当時はテレビ(白黒)が一家に一台しかないのが普通で、自分が見たい番組と親が見たい番組とがちがう時は、近所の子供好きのおじさんの家まで、テレビを見せてもらう習慣があったのです。
僕がいつもテレビを見せてもらってた5軒ほど先の家では、夏はいつもステテコ姿で寝転んで足組した“おっちゃん”こと村田さん(仮名)の足のすね毛ごしに「忍者部隊月光」やら「ウルトラQ」などを見てたのでした。
それがいつのころからか(たしか小学校3年生くらい?)になると、村田のおっちゃんのモワモワした毛深いな足が、なんだか妙に卑猥な感じがして、見てると変な気持ちになってきて、おちんちんがムクムク勃ってくるのを自覚してました。
それは、まだオナニーも知らない“性の目覚め”の原風景で、幼児体験として意識の奥深くまで浸透してしまったにちがいないのです。
そして、悲しいことに、その記憶が今なおトラウマとして僕の脳みその中の性的中枢を支配しているのです。
時を経て、村田さんと同じ脛毛の立派な仲本先生に出会ったことで、トラウマが呼び起こされたのでしょう。
そして、仲本先生の刺激的すぎる”毛深くて逞しい足”が、オナニーを誰に教わることなく覚えてしまうキッカケとなったのでした。
僕の場合、セックスそのものへの興味を持つ以前に、ビジュアル的な刺激で興奮する経験をしてたので、”行動としてのセックス”は二の次ということにどうしてもなってしまうようです。
幼児体験から、ビジュアルイメージにそった肉体的条件(この場合、毛深い足)が前提の性的興奮回路が脳内にできてしまったわけです。
かくして、僕は自分でも意図せぬまま、報われぬフェチ人生を歩むこととなります。
「フェチ持ち」はセックスそのものが目的ではないので、サウナや公園などのハッテン場で性欲を発散することはできません。
とりあえずセックスできればいいという「セックスフレンド」という概念そのものも成立しません。
はじめて大阪のハッテンサウナ「北○館」に来て、真っ暗な部屋で多くの人がセックスしてる様子がものすごく不思議で、ショックだったのを覚えています。
ビジュアルイメージなしに「行為としてだけのセックス」があるんだって事、そして、それが当たり前で、おじさんの毛深い足を見ないと興奮しない僕のほうが異端児だったって事が、にわかには信じられなかったのです。
ノンケ、ゲイを問わず、誰だって何らかの小さなフェティシズムは持ってるとは思うんですが、最終目的がセックスである場合は「フェチ持ち」とは呼ばないことにしたいと思います。
とりあえず、ここでは、セックス願望よりもフェチ願望のほうが勝ってる人、言い換えればセックスとフェチの立場が脳内で逆転してしまってる人のことを「フェチ持ち」と呼びたいと思います。
でも、誤解してほしくないのは「フェチ持ち」にも本能の奥底にはセックス願望がある事です。
抱きたい、抱かれたい、肌と肌を合わせることが至上の幸福であるのは、セックス派もフェチ派も根底では同じだと思います。(ひょっとして、例外もあるかもしれませんが、少なくとも僕はそうです)。
これは僕の持論だけど、同性愛者の性衝動は「方法としてのセックス」に直接結びつかない人が多く、アナルセックスという方法が好きでない人は、どうしてもフェチという方向性を歩むんじゃないでしょうか?
男と男の“性行為”そのものへの興味が先に立つ人と、性行為以外の要素(肉体そのものか身に付ける衣服やモノ、視覚、嗅覚的要素)に性的興奮を求める人、ホモの人達はその二タイプに二分化されると思います。
当然、前者が多数派なのは言うまでもありません。
でも、後者である「フェチ持ち」の比率は、ゲイ世界では非常に高いのではないでしょうか?
僕のあてにならない(?)個人的見解では、同性愛者のフェチ持ちの占めるパーセンテージは、一般男女のそれとは比べ物にならないくらい高い比率だと思います。
結論として、「タチ」でも「ウケ」でもない、第三のセクシャリティー、それが「フェチ持ち」であると断言します。
2006.7.22.改訂
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